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青年海外協力隊体験記
ネパール紀行文です。
ようこそいらっして頂きました。
私の人生を変えた、又、今日の姿の原点となる青年海外協力隊時代に派遣された、
2年間のネパール王国奮闘記を綴っていきたいと思っています。
文才はありませんが、自分史の一部として書き残したいとの願いでキーボードを叩きました。
気楽に読んで頂ければ幸いです。
1974年(昭49年 4月)
青年海外協力隊ネパール王国派遣〜織物加工
ネパール国営繊維工場に勤務し、150台の自動織機を稼動させる。

1976年(昭51年 4月)
任期を終えて帰国

1985年(昭60年10月)

青年海外協力隊
15周年記念
第00章 序文
第01章 ネパール王国概
第02章 青年海外協力隊訓練所 皇太子(現天皇陛下)と美智子妃殿下(現皇后陛下)との謁見
第03章 ネパール入国まで タイ国、インド経由
04章 ネパール王国入国 カトマンズ空港入国手続き
第05章 ネパール王国の第一歩
第06章 現地訓練 カトマンズ初日 銀行口座開設
第07章 生活必需品の買い物 下宿探し
第08章 任務初日
第09章 仕事始め
第10章 工場長宅食事招待 
食事と地酒
第11章 入院&退院
第12章  ネパール繊維産業調査開始 
刑務所調査申請
第13章 刑務所内調査&報告会
第14章 祭り
第15章 調査再開
第16章 日本語学校の講師
第17章 バクタプール市&バネパ村&調査
第18章 野外分娩
第19章 調査中間報告&地方への調査指令
第20章 宿場1
第21章 宿場2

第22章
第23章
第24章
第25章
第26章
第27章
第28章
第29章
第30章
ネパールからの通信です。 2001/06/08 10:436月7日は、外出禁止令も出されず、静かでした。 人々の生活は、徐々に平常に戻っているようです。 市内の交通量はまだ少な目ですが、だんだん増えてきていますし、 閉まっていたお店もだんだん開いてきています。 喪に服しているため役所や銀行があくのは、来週からになります。  新国王が設置した真相究明のための特別調査委員会の調査が、 今日から始まる事になっています。  国王が指示した期間は、 三日間ですが、委員長は、調査の具合によっては、期限延長も あるかもしれないとコメントしていました.その報告書の結果が、 将来に大きな影響を与えるのですから、慎重にならざるを 得ないわけです。 予定では、日曜日、報告書が国王に提出される事になります。 繰り返し書いているような気がするけど、ネパールの今回の 出来事について、あるいは、その後の事について、沢山、噂話、 デマが飛び交っています.それに惑わされないで下さいね。 もう一つ私が今強く感じている事は、庶民の多くの人たちは、 今回の出来事を「呑み込んでしまうだろうな!」と言う事です。 沢山の王族が亡くなった事に、深い悲しみを受け、 「何で自分の国でこんな事が起こるのか?」と大きな驚きを感じ、 「真相が明らかにされないのは、どうしてだ!?」と強い怒りを 覚えています。 そして新国王に対しては、強い反感を覚えています。 でも、呑み込んでしまうでしょう.これは善悪判断じゃなくて、 ネパールの多くの人たちの気持ちじゃないでしょうか。 これ以上、この国がぼろぼろになってほしくない、と言う気持ちです。 私は、これから、王政に対して、批判が高まり、学生や知識人の中に、 運動が高まるだろうと予測しています。 それで、人々が王政を倒すかもしれません.でも、とても多くの民衆は、 そのような政治的な動きよりも、国が平和であり、毎日の暮らしが 静かで、楽になってほしい、と願っていると思っています。 外出禁止令が出るたびに、あたふたと買い物をし、店に行っては 野菜の値段が倍になったと文句を言い、ダルバルマルガに 出かける息子を心配そうに見送り、ビレンドラ国王、王妃の写真に お参りして、涙を流す、そんなとても大勢の人たちの心情を思うと、 涙が落ちてきます。 悔しいし、悲しいし、頭にくるし、もうとにかくどうしていいか、 わからない気持ちです。何でこんな風になっちゃったんだよ!  そういう感情が渦巻いている。 でもでも、だから、ある特定の勢力に与して、何かにその感情を ぶつけて、動く、と言うのではない.そこに共感できますか? 口では、ネパールはもうダメだとか、あいつが悪いんだとか、 こんな風になってどうしよう、とかいろいろ言います。 その心の中にある深い想いを受け止めたい、、、 そう思う時に、外国のマスコミが、事件の事を得意げにああだ、 こうだ、と伝えている事、それを読んだ人たちが、 「あぁなんてネパールは、、、」「だから王政は、、、」 「そうか政府は、、、」と想像し、憶測で反応している事に、 深い悲しみを感じるのです。 悲しんでいる人と共に泣いて下さい.今は怒りではなく、静かに、 命を無くした人の事を、残された遺族、民衆の悲しみを思う時だと 思います。 しばし.そして、その後、この国の未来に思いを寄せて、 批判ではなく、新しい形を建設的に、想像して行く時が来るでしょう。 外国人の私たちは、その時に、ネパールがもっとすばらしい国になる ためのお手伝いができるはずです。 悲しくて書きました。でも希望を持っています。 生まれ変わる苦しみかもしれないから、、、
この投稿は、去る6月1日に発生した、 ネパール宮廷内の発砲・殺人事件後に、 急虚、現地入りした筆者からのもので有る。きょうの静岡新聞夕刊にヒマールさんのネパールに関する記事が 載っておりましたので御知らせします。 見だし: 信じられない、静岡の元協力隊員 ニュースに衝撃 県内では数少ないビレンドラ ネパール国王夫妻に謁見した体験の ある静岡市瀬名一丁目伊藤克彦さんはとても信じられない」と衝撃 の表情で国王銃撃のニュースに見入った。 このあと、ヒマールさんの協力隊員としての経歴、1975年 帰国寸前、ヒマールさんは呼び出され王宮で国王との謁見を 許された。 わずか30秒の謁見だが、当時神のごとく国民に慕われていた国王 の素顔を垣間見た。 「ネパールの人々の悲しみは想像もつかない」とーーー帰国後も 毎年ネパールを往復する伊藤さんはかの地を思いやった。 インターネットで協力隊関係者と情報収集に努めている。 私は家内とともにヒマールさんの店を訪れているので夫婦とも ネパールの事件について特に関心を寄せております。2001/06/03 02:10 ただ今、東京のネパール大使館に入って帰って来ました。 色々ご心配を頂き有難うございます。 皆さんから心温まるメールを頂き、感謝しております。 個々にご返事を申し上げたいところですが、 この場にて本日の状況のご報告でもって変えさせて頂きます。 第一報が入ったのは、 今朝8時にネパール大使館の秘書官よりでした。 直ぐに、ネパールの友人の所に国際電話を入れたところ、 ネパール時間で未だ午前5時前でしたから、 彼は全く知りませんでした。 日本で報道されているのをそのまま話しました。 9時頃、地元の静岡新聞の記者から電話インタービュー を受け、私の心情をお話しました。 それが今日の夕刊に、記事として載ってしまいました。 午前中は、いろんな方面から問い合わせが来て、 パニックとなり、私自身がショックで混乱していて、 とても正常の状態ではなかったです。 午後、東京のネパール大使館に行って、 情報収集してきました。 ネパール政府は、国民に混乱を避けるため、 細切れの情報を流していましたが、 ところが、インターネットでいち早く情報が、 外国から入ってきたという、 皮肉な現象が起きているようです。 先程、私の友人に国際電話を入れたところ、 殆どの国民が、ショックで打ちしがれて、 悲しみに浸っているようです。 神として崇められていた国王でしたから、 多くの殉死者も出てくるのではと予想されています。 現にその兆候も出ているようだと、友人は言って いました。 ネパールの場合、王室関係の人が亡くなれば、 国民は七日間喪に服すそうですが、 今回は例のない内ゲバみたいなものだから、 恐らく長引くのでは、と言っていました。 とにかく、今は全ての機能が停止しているようです。 国王と、二度の謁見があり、私と同年代でした。 ご冥福をお祈り致します。2001/06/04 11:20カトマンズの出張所より、昨夜メールが来ました。 < 一夜明けたカトマンズは午後から雨になった. <今日は街の交通は通常に戻っている. <国内線の飛行機も平常に飛んでいるようだ. <しかし、バザールの商店は多くが明日まで閉めているらしい. < 街はおおよそ平静らしいが、昨夜のパシュパティでの葬儀から <帰ってきた人たちが騒いだ地域もあったとのこと. <依然として今回の出来事に驚き、深く悲しむ人たちの姿が沢山 <見られる. <外国系のマスコミを通して伝えられた「王宮内射殺事件」と言うス <トーリーを信じない人も多くいるようだ. < 今朝発表された摂政ギャネンドラ殿下の声明文によれば <『あってはならない事故』によって多くの王族が死傷した」という <のが公式見解になっている. <信じる信じないは別として、人々の心のよりどころであった王室 <の中で今回のような出来事があったことに、沢山の人々がショッ <クを受けていることは確かだ. < 昨夜のコイララ首相の演説では、その最後で、真相を国民の前 <に明らかにするべく、政府も努力する、とあった. <ホントに努力してほしい、と期待したい.  <市内にあるナラヤンヒティ王宮には、朝早くから弔問に訪れる <多くの市民の姿がある. <今回の出来事は、人々の中に深い傷を残してしまった. <早く傷が癒され、多くの課題を抱えているこの国が少しでも前に <進めるように、と祈る.2001/06/12 10:36ネパールからの通信をそのまま転載します。  市内はほとんど普通の状態に戻ったように思える. でも空気がきれいなのは、交通量がまだ少な目だからだろうか. いつもこれくらい空気がきれいだと、とてもうれしい.  11日は、ビレンドラ国王が亡くなってから11日目に当たるため、 その法事が行われた.チトワンから連れられてきた象に、 バフン(ブラーマン)のお坊さんが乗って行ったり、様々な供物を 捧げたり、と興味深い儀式の様子が、テレビでも伝えられていた. その意味はよく理解できないのだが、説明でわかった事は、 亡くなった方の魂が、現世にいる我々を困らせないように、 おとなしくあの世に行っていただく、事が目的らしいな、と言う事. そのバフンのまとっていたきらびやかな僧衣と、足下の ちょっと安物みたいな革靴とのアンバランスがなんだかなぁ、、、  マスコミ各紙は、公式の調査結果報告書が出されるのを待っている. 一部週刊紙が、様々な憶測情報を伝えているが、どれも根拠があるとは 思えない. 但し共通している事は、「直接目撃者」の行った証言には、 多くの疑問がある、と言う指摘だ. 特に「検死」が行われなかっただろうことから、真実は わからないかもしれない、と思っている人も多いのではないか.  もう一つの論調は、有力日刊紙Kantipurの編集長他の 逮捕についてのもの. 昨日は市内で記者有志による抗議デモがあった. 今日はジャーナリスト組合が抗議のデモが予定されている. 本業の事務所が再開したので、同僚にいろいろ意見を聞いてみたが、 自分の国で起きた驚くような出来事によって受けた心の傷を感じる. 真相究明もあるけれど、それよりはこれからどうなっていくのか?と 言う不安感を持っている. そしれこれ以上混乱してほしくない、平和に暮らしたい、 と言う思いが強い. 外国メディアの興味本位(彼らはそう思っていないのだろうが)の 報道には傷つけられる. 興味本位ではなくとも「真実はこれだ!」と正義を振りかざすような 報道に違和感を覚える. 以上です。
2001/06/12   13:45先程のネパールからの通信をそのまま転載しましたが、 たまたま国王の法要の文献が見つかりましたので、 要約してお知らせします。 国王の法要について ヒンドゥー教では、人は亡くなると直ぐエマ(閻魔)の ところに連れて行かれ、生前の行いについて取調べを受け、 そして10日間、生前の行いによる責め苦を受けます。 11日目の法要では、この責め苦の期間を終了させるために行います。 このことで、死者の霊が、さ迷える魂から先祖の域に昇格します。 先日の11目の法要は、ビレンドラ国王の法要に携わってきた バウン(ヒンドゥー僧侶)のうちの一人に、亡き国王の遺品を贈り、 王様の格好をさせて象に乗せます。 この象に乗ったバウンは、一生涯、カトマンズ盆地に来ることが 許されず、盆地の外に送り出されてしまいます。 ですから、困らないだけの財産が与えられ、象もそのバウンの 持ち物になります。 バウンが履いていた靴は、ビレンドラ国王が履いていた物です。
2001/10/09 18:377日(日曜日)ネパールから無事帰って来ました。 いつもと違い、今回はすっかり疲れ果ててしまいました。 家に入るなり、そのままぐったりして眠り込んでしまい、 午前1時半にアメリカのアフガンへの空爆のニュースで起 こされ、遂にやったかと思いながら朝までTVに見入って しまいました。 昨日は、疲れを癒すため近くの温泉宿?に、1日中休んで いましたので、お陰様で今日は元気回復し、気分爽快にな りました。 今回のネパール出張は、例年ですと、雨期が終えて乾季に 入っていて、雪を頂いたヒマラヤのが抜けるような青空と 織りなす対比がとても素晴らしいのですが、それが毎日の ようにどんよりとした、時には小雨が降ったりして参りま した。太陽との出会いが全くありませんでした。 7月の王室の悲惨な出来事もすっかり落ち着きを取り戻し 、逆にネパールの不穏分子、マオイスト(毛沢東思想)派の 反逆な行動がカトマンズの人達を震撼させていて、夜は、 戒厳令に近い緊張感がありました。 あまりいいご報告が出来なくて申し訳ありませんでした。 暫らく、休稿していた「ネパール情報」を再稿させて頂きま す。宜しくお願い致します。
一口メモ
”カ−スト制度”って 何なのでしょう?
カ−スト制度私のこれまで得た知識から、まとめてお話致します。
カースト制度とは、一口に言って身分制度です。
先ず、発端は、紀元前15世紀以降、アーリア人(白色人種系)が、西北インドに侵入してきました。
先住民族(肌の色の濃い人々)との接触によって、ヒンズー教が生まれ、そこでアーリア人は、先住民族の身分制度を作り上げました。
即ち、肌の色の違いによる身分制度でありました。
アーリア人の司祭階級『バラモン』を頂点に、王族・武士階級の 『クシャトア』、農民・商人を中心とした庶民階級の『ヴァイシャ』、そしてこうした上位カーストに仕える奴隷階級の 『シュードラ』という四姓制度に分化されました。江戸時代の士農工商と言う身分制度にも通ずるものがあります。
紀元前6世紀に出現したゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)は、武士階級であるクシャトリアの出身で、バラモン教の身分制度に反対して、独自の仏教を編み出したのです。
13世紀に、仏教はムガール帝国〔イスラム教〕の隆盛により、滅びましたが、又、20世紀に再興となりました。
しかし、この氏姓制度にすら属すことのできない最下層階級として、不可触民 『アチュート』 を作りました。
更に、肌の色の違いとは別に、職能別に身分を分けたジャーティ(サブ・カースト)を設けて、職業が2,000〜2,500に細分化され、世襲化させました。パキスタンの分離・独立も根はカースト制にあります。低カーストにあった人々が、圧制と差別に耐えかねて、イスラム教に改宗したと言われています。
カーストの語源は、そんなに古くはありません。
15世紀末、初めてインドにやってきたポルトガル人が、インド特有の身分制度に気づき、それをカスタ(ポルトガル語で種族や血統を意味する)と呼びました。
それを語源となって派生したのが、英語のカーストです。1950年に制定されたインド憲法17条では、不可触民『アチュート』の差別を禁止し、また、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記してあります。
インドの影響を受けてきたネパールでも、1955年に憲法で、カースト制度の廃止を定めました。
単純比較して、今のインド人、ネパール人のカーストに対する意識は、江戸時代の封建制度が明治憲法で廃止してからの明治から大正にかけてのものではないかと思います。
いま、カースト制度で特に問題とされるのが、シュードラより低位とされる、いわゆる不可触民 『アチュート』 の存在があります。
カースト内の位置すら与えていないこの不可触民の人たちは、触れただけ(あるいは目にしただけ)でもけがれるものとして、カースト・ヒンドゥー(カーストをもつヒンドュー教徒)から差別されてきました。
1億人近く(インドの人口が約10億人)いるといわれるこのアチュードは、社会の底辺で大きな労働力を提供しているのに、社会的地位は非常に低いままになっています。
国連が中心となって、この問題に取り組んでいます。ネパールも全く同じ問題を抱えていますが、インドほどではありません。
ナマステ!
インドもネパールも、挨拶言葉は同じです。
ナマステ・・・・・・・・一般的に、普通の敬語として使われています。
ナマカール・・・・・・自分にとって、身分の高い人、高貴な人、尊敬する人、、、、
に使用します。
ナマステジー・・・・・主にインドで使われています。
ジーと言うのは、日本語の 「さん」 です。
チベット難民について
ネパールはヒマラヤ登山で私たちにとっても身近な山岳国です。
この国には、ブータンとチベットから逃れてきた難民が滞在しており、緒方国連難民高等弁務官が今年5月に訪れています。
難民事業本部は同弁務官事務所(UNHCR)のご協力を得て、9月11日から14日まで難民の滞在状況を調査しました。
1958年、チベット住民は中国政府による社会主義化政策に反対して反乱を起こしました。
その結果、ダライ・ラマがインドに亡命した他、約8万人がインド、ブータン、ネパールに逃れました。
ネパールでは、1961年に最初のチベット難民定住センターがカトマンズに建設されました。
現在では、15ヵ所の定住センターがあり、センターの内外で、約2万人の難民が生活しています。
なお、1989年以降に流入する難民はネパールでの定住を認められず、インド等第三国に移送されます。
UNHCRは1989年、カトマンズにチベット難民レセプションセンターを設置し、チベット難民福祉協会と共同で、難民の収容、凍傷等の治療と第三国への移送にあたっています。
このセンターには、常時200人、年間延べ2,500人が滞在しています。
センターの建物は、1998年に新築されました。
私たちはカトマンズ市内のジャワラケル難民定住センターを訪問しました。
チベット難民は、ブータン難民のようにキャンプに収容されている訳ではなく、ネパール国内のどこでも定住することを認められています。
従って、定住センターは閉鎖的なものではありません。
センターの中には、チベット絨毯の織物工場、住居、学校、保育所、老人ホーム等の施設があります。
絨毯は主に欧米諸国に輸出され、ネパールの貿易にも貢献しています。
収益金は労賃に使われる他に、定住センターの整備、運営等の公共目的に活用されています。
難民の代表者たちは、日本の人々に連帯を訴えるとともに、絨毯の販路を日本にも広げたいと述べていました。
今後、定住センター内の人口増加への対策や、職種を多様化して雇用増加を図ること等が課題となります。
http://www.rhq.gr.jp/hotnews/data/09.html
80年代末、ブータン政府はチベット系ブータン文化に基づく純化政策を推進しました。
そのため、それまでにブータンに移り住んでいたネパール系住民が、90年代初頭に難民となってネパールの南東部に流入しました。
1992年ネパール政府とUNHCRは、ネパール南東部のインドとの国境の近くに、7ヵ所の難民キャンプを設営し、現在約10万人の難民を支援しています。
最近は、難民の流入はわずかです。
キャンプ内の住居、学校等の施設は全て竹製の暫定的なものですが、良く整備されています。
世界食糧計画(WFP)が食糧を供給し、国際的に活躍するNGO6団体が生活面での支援を行っています。
難民自身も4つの委員会を組織し、統計の管理、配給、弱者支援、施設の修復に参加しています。
難民婦人委員会は、洋服仕立て、サリー布織り、ゾンカ語(ブータンの国語)教室、チョークや椅子用マットの作成を行い、BRAVVE(暴力被害者を助けるブータン難民の会)は、裁縫、刺繍、竹細工、タイプの実習を行っています。
キャンプの運営については、青少年のための教材の不足、キャンプ内に高等教育の施設が存在しないこと等の問題はありますが、難民はほぼ満足している様子でした。
他方、ブータンとネパールの間で、難民のブータンへの帰還をめぐる政府間交渉が行われていますが、妥結の目途はたっていません。
難民は、キャンプで政府間合意をただ待つ他に術はなく、帰還の見通しがたたないことについて焦燥感を強めています。
時間が経過する程この気持ちは強くなるでしょうから、これからは、心理カウンセリングにより心の安定を図ることも必要になるでしょう。
また、ブータンへの帰還が実現する場合、難民は実社会に編入されますが、その際職業上の知識や技術が必要となります。
現在キャンプでの実習はわずかですから、今後は帰還後のことも見据えて、職業訓練を強化することも課題になります。
難民キャンプの存在は周辺地域に様々な影響をもたらします。
たき木採取による森林資源の減少、米価等の物価の上昇、難民によって就労機会を奪われるのではないかとの地域住民の不安感は、地域に緊張をもたらします。
UNHCRはこれを緩和するために、植林、道路整備、診療所の建設、カレッジ図書館の整備等の事業を94年以来展開しています。
この事業は、難民と地域住民との関係改善に大きく貢献していますが、UNHCRの事業計画は2001年までです。
この分野のニーズは大きいので、日本のNGOがこの分野に進出すれば大いに歓迎されるでしょう。
既に、日本のAMDAが、難民と地域住民の双方に対し医療活動を行っており、現地で高く評価されています。
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FAX:054−262−3671